日本経済の盛衰と重なって推移する日本電子レンジメーカーの歩み
電子レンジは現代人にとって、もはやなくてはならない家電の一つです。
電子レンジは戦時中にレーダーの電波からその原理が発見され、戦後に製品化され、次第に普及していきました。
軍事技術を平和利用して開発された戦後を象徴するような製品でした。
日本の電子レンジメーカーはどのような歩みをたどってきたのでしょうか。
目次
電子レンジの草創期
日本では1959年、東芝が初めて電子レンジを開発しました。
1960年代初頭において、電子レンジの価格は100万円ほどもし、一般家庭が手に入れられる価格ではなく、一般家庭に普及するには至りませんでした。
電子レンジは、当時の国鉄の食堂車やデパート、病院、レストランなど業務用として使用されていました。
ひとまず作っておいたものを短時間で加熱し、客に提供できるため、レストランなどにはうってつけの機器でした。
ナショナルNE-500―家庭用レンジ発売へ
1960年代中頃になると、電子レンジの価格は低下していきます。
シャープのR-1200(1.2KW)は54万円、R-800(出力900W)は39万8000円、R-650(出力700W)は31万円で販売されました。
そしてついに1965年、ナショナル(松下電器)によって家庭用電子レンジが発売されました。
それがNE-500であり、出力は500W、価格は19万8000円でした。
NE-500の新聞広告では、「秒速で楽しいホームクッキングを!」「『風味』が逃げるスキがない」「『ビタミン』がそこなわれない!」と謳われています。
日本橋の三越本店では、普及のためにナショナル家庭用電子レンジの実演展示会も開催されました。
ナショナルは電子レンジで調理をすることを、「エレクトリック・クッキング」から文字って、「エレックする」という言葉とともに流行らそうとします。
その言葉は定着するには至りませんでしたが、電子レンジは一般家庭に普及していきました。
電子レンジを売り込む家電メーカー
1960年代後半、各家電メーカーは一般家庭への電子レンジの販売に力を入れていきます。
電子レンジをクッカーと呼び、クーラー、セントラルヒーティングと合わせて「新家電3C」として売り込みました。
20万円近くもした電子レンジは、安いものでは10万円を切るようになりました。
ナショナルは、出力550Wで、9万9800円の製品を販売します。
1969年には電子レンジの年間販売台数は約20万台と見込まれていました。
また各家電メーカーは電子レンジを嫁入り道具として売り込んでいきました。
当時、新婚世帯は毎年100万組から120万組生まれるとみられていました。
嫁入り道具のうち、電気製品は平均10万円とされており、当時の電子レンジの価格はその平均に迫りますが、少しずつ結婚需要が生まれていきました。
大坂万博と冷凍食品
1970年3月14日から9月13日まで大阪府吹田市で大阪万博が開催されました。
高度経済成長を遂げた日本を象徴するようなイベントでした。
冷蔵庫と電子レンジの普及が進むなかで、食品・家電業界は万博をきっかけに冷凍食品の一般家庭への普及を図ろうとします。
冷凍食品業界をリードする日本冷蔵(ニチレイ)は、大坂に冷凍食品の高槻工場を完成させ、万博では食堂「テラス日冷」と売店「日冷コーナー」を出店しました。
家電メーカーも冷凍食品メーカーと手を組み、展示会や実演販売会など消費者へのアピールを続けました。
商戦の一時停滞
1970年頃になると、電子レンジの電磁波もれ事故が紙面を賑わせるようになり、電子レンジ商戦は一時停滞をみることとなります。
当時の通産省は業界を守るため不良品名を公表化せず、朝日新聞1970年2月23日の「天声人語」は、「産業発展第一主義で、業界の利益を先に考える傾向が通産省にあるが、電子レンジの問題でも、それが現れている。
人間様を大切に考えてもらいたい」と批判しています。
1970年11月にはシャープ製電子レンジによる感電死事故も起こってしまいました。
さらに1971年にはガスレンジが発売されてヒット商品となり、電子レンジは苦境に追い込まれていきます。
ガスレンジは電子レンジに比べて2~3万円安く、オーブンと同じ原理のものなので主婦にも受け入れられやすいという利点がありました。
価格の低下と売り上げの回復
1971年、電子レンジの需要が頭打ちするなか、各メーカーは値下げした新商品を発売し、売れ行きが回復していきました。
ナショナルがまず8万円台の製品を出すと、サンヨー、日立もすぐに追随します。
シャープの新製品は独自の回転テーブル方式を採用し、9万円台と他社に比べて割高でしたが、翌72年には6万円台の製品を市場に投入しました。
日米貿易摩擦
高度成長によって、日本製品がアメリカに大量に流入していくと、日米間では貿易摩擦問題が起こりました。
1960年代には繊維、1970年代には鋼鉄、1980年代には電化製品や自動車の輸出が問題となりました。
1980年7月、アメリカの商務省は、東芝製の電子レンジがアメリカで日本国内より80パーセントも安く販売されていると暫定決定を下しました。
東芝は同年、アメリカでの現地生産を予定し、輸出を取りやめました。
シャープ、ナショナル、サンヨーの三社は、ダンピング(不当な安売り)はないとされました。
高級化と低価格化
1970年代後半に入ると、オーブン付きレンジや自動調理式のものが発売されましたが、価格は11万~18万円と高級化し、売り上げはあまり伸びませんでした。
そこで1982年にはナショナルが5万4800円、サンヨーが5万1800円と、5万円台の新製品を投入しました。
機能を簡素化し、従来の価格より1~2万円下げ、ヒットしていきました。
ナショナルはさらに低価格化を進め、1985年には4万3000円、4万8000円と、5万円を切る新製品を発売しました。
さらに翌86年には業界最安値、3万8000円の製品を投入しました。
同製品は500Wと180Wの出力切り替え機能を備えていました。
1990年代、インターネットの普及が進んでいくと、シャープは1999年世界初のインターネット対応レンジをリリースしました。
また1万~2万円台の一人暮らしにおすすめのレンジも発売されていきます。
中国メーカーの躍進
2000年代に入ると、安価な中国製品が流入し、日本のメーカーは押されていきます。
中国の家電大手ハイアールは2002年、サンヨーと提携し、日本でサンヨーの販売網を利用し、中国ではハイアールの販売を利用してサンヨー製品を売ることとなりました。
2003年、電子レンジ生産台数世界一を維持する中国・広東省のギャランツは、1600万台を販売し、世界シェア44パーセントを占めました。
2013年8月、サンヨーは中国で電子レンジなどを製造・販売する現地法人をアメリカの家電大手ワールプールに売却します。
2016年6月、東芝は白物家電事業を中国の美的集団に売却しました。
美的集団は40年間、東芝ブランドを使用する権利を得、ブランド名は残りますが、経営判断は美的集団が手掛けることとなりました。
まとめ
以上、日本の電子レンジメーカーの歩みについてご紹介してきました。
電子レンジはもともと軍事技術を平和利用して開発されたものでした。
日本では1959年に東芝が初めて電子レンジを開発して以降、高度成長期の普及、日米貿易摩擦、中国製品の流入と、その歩みは日本経済の盛衰と重なって推移してきたといえるでしょう。